pax1182のブログ

乳がんの記録

Ultimate

ultimate の試合を見ると、次男がultimate を始めた頃を思い出す。


以下は2018年 ジュニアの試合



2018 WFDF World Jr. Ultimate Championships | WJUC Men's SF: USA vs Belgium | Aug. 24



5年生で、初めて行ったとき、チームの中で大学生、社会人が、

「今日、小学生が来る❗誰がついて教えてあげる?」

と相談してあり、ホントに1日ついて教えてくれた。

そして、皆が可愛がってくれた。

2ヵ月後には 試合にも混ぜてくれた。

秋には大会にも1泊して一緒に参加して、、、皆が次男を可愛がってくれ、私が皆を可愛がる、、、そんな幸せな時間だった。

大会の後、ランニングを終えたメンバーが一斉に並んで、、、「何か 始まるのかな?」

一緒に並ぼうとしたら、

「そこに立ってて❗笑っ」

と全員に言われた。

「応援、サポート、ありがとうございました‼️」

とピカピカなニコニコの満面の笑顔で全員から言われたとき、感動して涙になりそうでした。


同じ言葉を何度も受けた来たけど、こんなに心がこもった試合後の挨拶は初めて!!



あの頃、そのチームに触れられて、幸せだったな。

うん、高揚感 うきうき、楽しい、充実した幸せな時間だった。







ultimate を始める前


野球をやめるとき、次男はへたくそBチーム、A チームと明らかに差別されていた。


練習内容も違う 平日練習の参加も許されない、行った日には、参加したことを大声で叱りつけられる。

試合も滅多に出られない。

それなのに打率を張り出される、、。

まだ10才の子供たちが こんなに心を痛めつけられて そんな指導方針があるのだろうか、、、疑問だった。


次男が怒鳴りつけられた次の練習のとき、

私は言い返したくて、仕方がなかった。

どんな方法でも策を練れば仕返しできたと思う。

でも、その時いつも、私の心の中にあって、私の心を離さなかったものがある。

キリストのむち打ちと、十字架である。


メル ギブソンの「passion」は

私が読んだ本「マリア ワルトルタ」(聖書にあることをビジョンで見せられて、全てを記載した本)そのままだった。


メル ギブソン

「passion」



The Passion of the Christ Worthy Is The Lamb



私がここで 汚い言葉で罵ったり、索を練って仕返しすることは、悪意を増やすこと、

キリストのむち打ちを増やすことにならないだろうか、

ということだった。


ギリギリの両極端の選択肢。


何もしないということは 次男の心を見捨てること。



ずっと考えて、考え直して、、


今まで、私はどうしたらキリストのむち打ちを1回でも減らしてあげられるのだろう、と思って祈ってきたのに、

私の心のままに相手を攻撃することが、

キリストのむち打ちを増やすことになるのではないだろうか、、、。






トルストイの童話

「チンピラ悪魔がパンの償いをした話」

にあるように、サタンは私を怒らせたい、汚い言葉で罵らせたい、心を汚したい、神様から離れさせたい、、、


と思ったとき、

「その手には乗らない。」

と思った。


私は一切を捨てよう、

と思った。



私は怒りから手を引く。

キリストを1回でもむち打ちから逃れさせたい、そちらを選びます。


私が仕返しをして、「すっきり」することを捨てよう。





次の練習のとき、グランドを

数メートル離れて、その人が同じ方向を歩いていた。

私から何が言われるのでは?と思っていたのではないだろうか。


私は 言い返すことも、怒りを向けることもしなかった。


ただ、一言

「お疲れさまでした。寒かったでしょう?」

とだけ言った。

彼は返事にならない返事のような相づちだった。





Bチームは相変わらず ろくな練習もできないばかりか、放置されていることすらあった、

見かねたチームのお父さんが面倒を見てあげることもあった。


しかし、その日練習から帰ってきて次男が言った。


「今日 あのコーチが僕たちに野球教えてくれたんだよ!」


「いつ?」


私が声をかけたその後だった、、、、。



神様の勝利❗


これでいいんだ、と思った。


恨みや、争いはどこかで誰かがストップしなければならない。



この世の目で見たら「負け」かもしれない。


でも、神様の目からみたら、勝利❗



それを十字架のキリストが示してくれる。


聖書に書いてある。



私が汚い言葉で罵らなかったこと


悪意で悪意をさらに生まなかったこと



悪意を受けても「愛」に変えられたこと、


それは神様の 聖母の 天使 聖ピオ神父様の支えがなければ、


絶対出来なかったこと。

×

非ログインユーザーとして返信する