pax1182のブログ

乳がんの記録

療養21日目 孤独

日曜日は、ミサで感じたことを書くことが多いが、、、。



今日は何も書けない感じ。



ミサの朗読も

聖変化(最後の晩餐、受難、十字架、復活、救い)でも、何も感じないし、イメージしない。


朗読を聞いても心の中で神様と語り合うこともない。

 

心の中の自分が神様に対して 何も持たない、という表現が近いかもしれない。





ミサの 、、、最初から最後まで、涙が流れていたのは何だろう、

どこの箇所とか 何を聞いて、とか、

覚えていない。





孤独、

痛み、苦しみ、不安、、、

そしてまた 孤独。


前向きに考えられる自分がいなくて、今日はこの中に取り残されて 上がってこれない感じ。





「れん獄の霊魂が 一番苦しいのは、

熱さとか、渇きではなく、

『神様を離れてしまうこと、神様を忘れてしまうこと、神様なんていない、と感じてしまうこと』だ、」

と聞いたことがある。


私はそこに

半分 足を突っ込んでいる気分だ。





今日は 私は

元気な発想なんかできない。

前向きなアイディアなんかひらめかない。

神様の素晴らしさ

生きるってことの素晴らしさ



全くイメージできないな。


生きることって 大変なことばかりだから。


 





帰路、リトルでご一緒だったご夫婦が 私の姿(杖をついて 長男に捕まっている)を見て、

「どうした?」

と心配事そうに声をかけてくださった。



聖歌隊のご夫婦も、長男に様子を伺ってくださり、



オルガンを弾いてくださる 仲良くしていただいている女性からも 帰宅後 メッセージをいただき、、


心配してくださる。


ミサの中の 心の発見はなかったけど、

こんなにたくさんの方の愛を受けて

孤独から少しでも解放されるための

神様からのプレゼントなのだろうか。



  

こういう気分のときは

いつも祈ると、、

イメージのなかで キリストの十字架のしたに 私が座っていて、それが子供の姿で、、

キリストの足に手を当てたり、御血をぬぐったり、話しかけたり、お花を摘みながら、なにかを編んで 時々キリストの顔をみあげながら話しかけ、またなにかを編んでいるイメージが、ある。


今日は  十字架の下で四つん這いで丸くなり両手をおでこの下において、、動けない感じ


心が もう、1歩も歩けない、動けない

という心の感じ。


現実の体はミサに行って動いているのですが、

心はもう 少しも動けずに キリストの下で 「休ませてください」 という感じ。




前にもあった、、

次男がUltimate を始めるまえ、

野球を辞めるときも、こうだった。



「私にできることはもう、ありません

私に考えられることは、もう、ありません」


全て神様に委ねる 心の状態

いくつか選択肢があって 委ねるのではない。

選択肢は1つ。

委ねること以外 選択肢はない。






そういう日は神様の「沈黙」が続く。

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